サイトマップ

  • Get Adobe Reader
  • Get Flash Player

長野県民主医療機関連合会

アクセスマップ

〒390-0803
長野県松本市元町2-9-11
民医連会館2F
TEL.0263-36-1390
FAX.0263-33-1229

機関紙:長野県民医連

第253号 2011.08.25

語り継ごう、戦争 広げよう、平和の行動

終戦から66年、東日本大震災により多くの命が失われ、福島原発事故は再び日本の地に放射能汚染と被害をもたらしました。今年ほど「命あること」の重みを感じることはありません。私たちはこれから何を選択し、どう生きるのか。事実から学び、考え、行動していきたいと思います。元伊那谷健康友の会役員の中島茂さん、上伊那生協病院デイケアボランティアの小松百子さんに戦争体験をお聞きしました。

満蒙開拓団、逃避行の悲劇 飯田市 中島 茂さん(76歳)

満州での体験を語る中島さん
満州での体験を語る中島さん
8月9日最後の召集

私は昭和9年生まれ、泰阜(やすおか)村の出身です。昭和15年、国民学校に上がる前の秋に祖父と両親、姉4人と弟2人の家族10人で「満州」へ渡りました。
昭和20年8月9日に最後の召集があり、18~45歳までの男子が対象でした。45歳の父も召集されました。後から聞いた話では、召集された部隊へ行くと部隊はなく、そのままソ連兵につかまりシベリア送りになったそうです。
父が召集された直後に「ここに居ては危険」という情報が入り、開拓団のみんなと逃げることになりました。駅には各地の開拓団から集まり、1000人かもっと多くの人がいました。「これが最後に通る汽車だ」「この汽車に乗れば、ソ連軍の標的にされるから乗らないほうがいい」と大人たちは話していました。2日ばかり待機していたので、いったん開拓の部落へ荷物を取りに帰る人もいましたが、戻る途中に襲撃され死人も出ました。

逃避行

歩いて逃げることが決まって、逃避行が始まりました。最初は牛車や馬車に荷物を積んで、歩けない人を乗せていました。川を渡ろうとしたら橋がありません。仕方がないので荷物は持てるだけにして、水の中を渡りました。「日本兵が逃げる時、追っ手から逃れるために橋を壊した」と後で聞きました。
日本人が勝手に自分達の畑を奪った上に、ろくに給金も払わず働かせたなど「抗日」感情を持つ人たちに襲われるので、広い道は歩けません。昼は隠れていて、夜歩くこともありました。私たちの行進は最後の人が門を出ると、先頭は1㎞先というくらい大所帯でした。
ある日の昼頃、太平鎮(たいへいちん)に着くと、村の人が「昼ご飯をどうぞ」と歓待してくれました。私たち家族は、「ここでゆっくりしていこうか」と話しました。「明るいうちに行きなさい」と言われ、その部落の門を出たとたん、道の両側から一斉に発砲がありました。あっというまに道は死傷者でいっぱいになり、前の人が倒れても避けることができないほどです。無我夢中で姉に手を引っ張られて逃げました。
夕方になって銃声は止み、みんな疲れてそのまま道ばたでごろ寝して、翌朝、正気にもどって、家族や親戚の名前を呼んで無事を確かめました。ここで多くの人が死にました。

泰阜村の平和宮境内に立てられた満州移民犠牲者の慰霊碑(正面)と犠牲者名が刻まれた碑(左)〈撮影:健和会病院 木下紀幸さん〉
泰阜村の平和宮境内に立てられた満州移民犠牲者の慰霊碑(正面)と犠牲者名が刻まれた碑(左)
〈撮影:健和会病院 木下紀幸さん〉
妹も命を落としました

襲撃の翌日、日本兵と合流し半月ほど山中を歩き回りました。9月3日、方正(ほうまさ)のある部落で「開拓の皆さんはここで降伏しなさい」と日本兵に言われ、ソ連兵に降参しました。「武装解除」されると、刀や鉄砲が積み上がりました。開拓団が武器をたくさん持っていたことに驚きました。
収容先には、各地から大勢の開拓難民が集結していました。開拓団が使っていた建物にぎっしり詰め込まれ、立てば座れない狭さです。具合が悪くなっても寝かせる場所もありません。毎日、毎日、寒さと飢えで多くの人が死んでいきました。8月のままの身支度ですから、寒さが辛い。11月には満州へ渡ってから生まれた末の妹が死にました。

寒い冬を乗り越えるために

中国人に「嫁に来れば家族も一緒に面倒をみるから」と言われ、「寒い冬を越すために...」と姉は仕方なく嫁にいきました。その姉は2人目のお産の時、死にました。その後4番目の姉がそこの弟の嫁になりました。
母は私と弟を連れて豆腐屋と再婚しました。弟と2人、働かないと生活できないので、豚の放牧をしました。現地の人もやりたがらない仕事です。他にもいろいろな仕事をしました。生きていくために、まず言葉がわからないといけないので、必死で中国語を覚えました。すると日本語は1年で全部忘れてしまいました。

昭和28年、帰国

1番上の姉と3番目の姉は、開拓村から出て別の場所で働いていたので、先に日本に帰れました。父もシベリアから泰阜に引き揚げていて、母は手紙を書いて日本の様子を知ることができました。
家族全員で帰りたかったのですが、母と私と弟の3人で、昭和28年に日赤の民間交流の船で帰国することができました。
住む家はありましたが、私は20歳になっても学校へも行けず、仕事に就こうにも日本語を忘れ、字引を片手に猛勉強しました。戦争は子どもが一番犠牲となります。戦争は2度とあってはならないと強く思います。(談)

(注)日本は、世界恐慌による経済破たんを中国市場獲得と軍需産業拡大で打開しようと、1931年に満州事変を起こし、15年戦争に突入した。32年に武力により傀儡国家「満州国」を建国し、国策として満州移民を開始した。蚕糸業不振にあえぐ長野県は、県をあげて推進し、全国1位の約3万4000人を送り出した。泰阜村では276戸1139人が移住したが、帰国できたのは420人のみだった。

ベニヤで造った特攻機 箕輪町 小松 百子(ももこ)さん(87歳)

戦争当時の様子を語る小松さん
戦争当時の様子を語る小松さん
ベニヤで造った特攻機

戦争が激しくなった昭和19年、男たちは兵隊にとられ、残った学生や若者は愛知県などへ勤労動員されていました。養蚕と農業を手伝うため家に残っていた私に、ある時「辰野に飛行機を造る工場ができるので、冬の間だけ働きに来てほしい」という話が来ました。
11月~3月の毎週月曜から金曜まで、15~16人で工場に泊まり込みました。電車賃がないので、月曜には朝5時に起きて、雪や風の中、2時間歩いて工場に行きました。工場では朝7時に起きて持ち寄ったもので朝ご飯、体操、午前8時から午後5時まで仕事でした。飛行機づくりといっても、専門家はだれもいません。男の人は、大工だった人が中心になって、決められた形にベニヤのような板を切り、女たちは基盤にハンダ付けをしましたが、飛行機のどの部分になるのかまったくわかりませんでした。どこかで組み立てて特攻機にするのだと聞かされました。
板は5㎜くらいでベコベコだったので、「こんなので飛んで行けるんですか」と男の人に聞くと、「いいんだ、いいんだ、帰ってこなくていい飛行機だから」という返事。ひどい話ですが、当時は普通の会話でした。批判めいた事を口にすればすぐに警察に捕まる時代でした。
工場で2冬働きましたが、終戦の年には、午後3時ころには切る材料がなくなり作業はおしまい。近くの飛行場がB29に攻撃され、防空壕に飛び込むこともありました。

宮木駅前の桜並木
宮木駅前の桜並木
朝鮮から連れてこられた青年たち

暗い時代のなか、かわいそうだったのは、朝鮮から強制連行されてきた青年たちでした。中箕輪小学校に寝泊まりして一宮の開拓をさせられていました。
私の父は面倒見のいい人だったので、作業監督の将校5~6人が昼間から遊びにきました。すると、将校たちに見つからないように朝鮮の青年たちが「食べ物をください」と手まねするのです。かたいトウモロコシをそのままかじっている人もいました。
「にぎりめしこしらえて、土手の向こうにそっと置いてこい」と父に言われて置くと、物陰から1人ずつ走ってきておにぎりを手に取り、涙ながらに手を合わせていました。宮木駅前に見事な桜並木がありますが、戦争が終わってその人たちが国に帰るとき(昭和35年)に植えたものだそうです。

最初の戦死者

私の親族に戦死した人はいませんでしたが、村で最初に戦死した人を駅まで迎えに行ったことを、はっきり覚えています。結婚して2年目で、子どもさんも小さかったです。日の丸振って君が代うたって送りだして、お骨になった人を迎えにいって...戦争はいいことなんて一つもないです。もう二度といやです。(談)


原水禁世界大会〈8月7~9日〉in長崎

長野県連からは、職員・共同組織からあわせて29人が参加しました。

医療者としていかなる核にも'NO' 長野中央病院・医師 村山 恒峻

長野中央病院・医師 村山 恒峻(写真左上)
(写真左上)

長野医療生協から4人のメンバーで参加してきました。国内外から約8000人もの参加者が集まり、平和と核のあり方について意見が交わされました。
大会2日目、「核兵器廃絶、軍事同盟とくらし」という分科会に参加しました。分科会では弁護士の方から原爆症認定訴訟に関する経緯について、また市議会議員の方から社会保障問題についてなど、それぞれの分野での平和や核・原爆問題への取り組みやそれらとくらしとの関わりについての発言がありました。いずれも自らの専門分野・身の回りの事柄から取り組まれたものであり、多様な観点から核や平和の問題を見つめ直すことができました。それとともに、身近なことからこのような問題を考えなおしてみることが大切であると感じました。
人びとの健康に携わる医療者として核兵器や平和、さらに昨今大きな問題となっている原発についてどう考えるか。やはり強く思うのは「これ以上新たな被曝者を生みだしてはならない」ということです。いかなる形態であれ、人間の健康に対する危険性を内在している核に対して医療者として明確に'NO'の意思を示していく必要があると思いました。

1人の力が万人もの力になる 東信医療生協・看護 堀内 あゆみ

東信医療生協・看護 堀内 あゆみ

初めて世界大会に参加しました。祖父が戦争経験者でもあり、小さい頃から戦争の恐さや悲惨さを聞いており、平和についてはとても関心がありました。
私が感じたのは1人の力が万人もの力になること。世界中が力を合わせて声を上げていくことで、大きな力になると思いました。1人だけで平和について考えていても、なかなか広がらないのですが、このような大きな会に参加し、多くの人が平和に関心を持ち、広げていくことで結果的に核兵器のない世界を作る大きな一歩になるのではないかと感じました。実際に、長崎県に訪れて、見て・聞いて・感じて、歴史に触れることで平和の大切さや命の尊さを学ぶ事が出来ました。今は当たり前のことが、当たり前のようにできる幸せをかみしめています。

原子力から再生可能エネルギーへの転換を! 上伊那生協病院・PT 池上 智之

上伊那生協病院・PT 池上 智之

上伊那医療生協リハビリ課代表として参加しました。私は原爆に対して、どこか他人事のような気がしていて無関心な部分がありました。しかし、今回、実際に参加してみると、開会式には約7800人もの人が世界各国から集まり参加者の人数や熱気から、この大会の盛大さが感じられました。
大会の中で発言された福島の方の話には、身体や環境への影響、食べ物の不安など実際に経験された方の重みがあり、とても心に響きました。世界大会に参加し、原子力発電反対!という気持ちが強まり、自然を利用した再生可能エネルギーへの転換を進めていってほしいと思いました。

66年たっても消せない「心の傷」 健和会病院・事務 熊谷 香織

健和会病院・事務 熊谷 香織(写真右)
(写真右)

私は今まで原爆について本や映像でしか学んだ事がありませんでした。今回被爆地である長崎へ行ってとても感じたことは「心の傷」です。
原水禁に参加して被爆者の話を聞くことができました。その人は「当時のことはひどすぎて話すことがまだできない。ただ、あんなおそろしい物は絶対にあってはいけない物だ」とおっしゃっていました。66年経った今でも体の傷や病気や心の傷を負った人がたくさんいました。こんなに人を傷つける原爆は絶対にあってはいけないものだと思いました。そして今ある幸せに感謝しながらすごしていきたいです。

平和行進を 平和を考えるきっかけに

諏訪共立病院 矢花 友美子

諏訪共立病院から下諏訪町役場までの行進

7月10日、諏訪共立病院から下諏訪町役場までの行進に参加しました。とても暑い日でしたが、約50人の参加者が、平和を訴える旗を持ちながら行進しました。大勢での行進だったので、道を歩く人たちや、横を通る車から見ながら通り過ぎていく事も多く、こういった形での平和アピールというものもあるのだと改めて実感しました。
今年は原水禁世界大会に参加するため、平和について初めて多くの事を考える年になっています。日本全国を歩く行進から、今まで他人事のように考えていた人達が、少しでも平和について考えるきっかけになればいいなと思いました。


ピースパレードに400人

第23回国連軍縮会議が松本市で開催

松本協立病院・下田 民子

松本市内をゆくピースパレード
松本市内をゆくピースパレード

7月27~29日までの3日間、松本市で国連軍縮会議が開催されました。
これを盛り上げようと、市民企画の運営委員となった私とPチャリメンバーは「まつもとピースパレード」という市民自由参加のパレードに企画から携わりました。震災による福島原発問題もあり核に対する関心が高く、当日は終点で400人近い人が集まりました。
心配された天気も持ちこたえ、参加者の皆さんは思い思いのフラッグやピースグッズを持って平和への願いを伝え合い、音楽と共に熱気ある盛り上がったパレードになりました。市民の平和への思いが本会議場へ届いたことと思います。ここが核廃絶の出発点だという思いを新たにしたイベントでした。


医療の質評価・公表事業 担当者交流会を行いました

県連事務局・宮澤 洋子

みなさんは勤務している、または関係している病院を「良い病院」ですと他の人に紹介していますか?「もちろんです」と言う方も、「何がどういう風に良いの」と聞かれたら何と答えているでしょうか。特に患者さんの立場で考えたときに「良い病院」の条件は、一言でいうのはむずかしいでしょう。  
この「良い病院です」と言うための根拠をさまざまな数字を使って、「見える化」しようというのが、「医療の質の評価・公表事業」です。具体的な数字(指標)としては、入院患者に対する転倒転落率、褥瘡新規発生率、退院後30日以内の再入院率などです。現在、全日本民医連の58病院で21項目を指標としてデータ収集をしています。
そして、この事業の本当の意味は、隣の病院と数字を比べることではありません。地域性、患者層など個別の特徴がありますので他との比較ではなく、自分の病院が数字をよくするための努力ができているか、目標の設定を組織的に取り組めているかが最も大切なのです。
全日本民医連では昨年度から委員会をつくり、項目の検討や担当者の学習、交流会など行ってきました。長野県連では診療情報管理士を中心に実務面や取り組みの交流を行いました。

いよいよゆいの里"配食センター"が スタート!

「ゆいの里」専務理事 福澤 宏敦

ゆいの里 配食センター

この8年間、地域の要求にこたえて、特養と養護老人ホームの厨房で作ってきた"配食弁当"が、より多くの要求にこたえられるようにと" 配食センター"がスタートしました。
来年改訂される介護保険では、軽介護度(要支援1、要支援2)の方々が利用してきた食事づくりなどの" 生活支援サービス"が利用できなくなってしまいます。この事自体大変大きな問題ですから、大きな世論によって元に戻すように運動をしなければなりません。しかしそれでも実施された時、この配食センターの役割は、今と比較にならないくらい重要になると思います。
8年間、どの利用者をみてもお弁当を必要とする理由は、その方が生きていく上でとても大切な事ばかりでした。8年前、年間食数246が2010年には約1万8000食になったのは、利用される方の状況をうかがった時、断れなかったからです。
しかし、経営的観点から見た時、配食センターを独自に開設して運営していく事はかなり厳しい事です。現在、1日80食を作って配達していますが採算がとれるには1日200食を作らなければなりません。これまでのペースで考えて、3年後には目標を達成したいと考えています。
ゆいの里は" 安心してここで暮らしたい"という願いから、大勢の地域の方々の運動によって生まれました。その願いに少しでもこたえるため、配食センターを中心に、これからも地域要求実現に向けがんばりたいと思います。

「ゆいの里」専務理事 福澤 宏敦

❶ 最後まで家で暮らしたいと言う気持ちに沿って自立への支援をします。
❷ お弁当をお届けする際、お変わりなく暮らしておられる事の確認と、"声掛け"を大切にします。
❸ 地元の味を大切にした、安心して、食べやすいお弁当を提供します。

ゆいの里のお弁当の特徴

身体の状態に応じたお弁当
高齢者の方が食べやすいのは勿論、飲み込みづらい方のために"きざみ食""極きざみ食""トロミかけ""カロリー制限食""塩分控えめ食"等それぞれの方に応じた状態でお弁当をお届けします。
温かいお弁当
センターを出発して最後の方にお届けするまでの時間を最高45分間としていますので温かい状態で食べられます。
家庭の食事に近づけたお弁当
時にはうどんやそば、冷やし中華であったり、時には"どんぶり物"であったり、また時には五平餅であったりと今まで家で食べてきたものに近いお弁当をお届けします。


お弁当の値段

ご飯+おかず+味噌汁=700円(ゆいの会員は600円)
おかず+味噌汁=600円(ゆいの会員は500円)

※ 作り方が、お粥、きざみ、とろみかけ、ソフト食、カロリー制限食、塩分制限食等であるか否かにかかわらず料金は同じです。
※ 飯田市からの補助が認定された方は1日1食200円の補助が出ます。
(この場合、ゆいの会からの補助はありません)


配達日数・回数

365日、昼食と夕食のお弁当を配達します

福澤さん:センター化して、新たに職員を雇用しました。経営的にもここからが正念場ですが、センターを中心に地域のボランティアを育てることも考えていきたいです。細田さん:● 利用開始時には、本人と家族、ケアマネさんとの打ち合わせも大事にして、その方にあった食事形態でお届けできるようにしています● 配達時には、顔を合わせて話すことを大事にしています。先日は、ベッドとポータブルトイレの間で動けなくなっている利用者さんを見つけて助けました。

「ゆいの里」配食センターをたずねて

8月11日、機関紙編集委員会は「ゆいの里」配食センターを見学、専務理事の福澤宏敦さんとセンター長の細田真澄さんから説明を受けました。
昼と夕のお弁当で高齢者の「自宅で暮らしたい」という願いを支えたいと、はじめは特養の厨房で入所者さんの食事と併せて作っていたお弁当作りですが、現在は、1日80食。配達は3~4コースに分かれて、半径約10km圏内を届けます。調理は4人の職員で行っています。清潔な厨房では、食欲をそそる材料、配色、好みの硬さのおいしそうなお弁当が、すべて手づくりで調理されていました。


南信勤医協で電子カルテ導入

諏訪共立病院・医事課長 片野 恵太

南信勤労者医療協会ではケアマネとヘルパー業務を除くすべての事業所で、8月1日に電子カルテが導入されました。準備期間が5か月弱と短く、10月に病院機能評価更新を控え慌しい中でしたが、これまでのところ大きなトラブルもなくスタートを切れました。これから日々改善を重ねて、電子カルテの便利さを職員の協力で引き出していきたいと思います。 
準備期間には他院所のみなさんにいろいろ教えていただき、本当にありがとうございました。これで、県連全法人で同一システムの電子カルテが導入され、長野県民医連の協力体制がまた一歩進むことを期待しています。

変わりゆく介護保険とみんなの思い 格差のない介護の制度をめざす県民大集会in松本

10月1日(土) 13:30~16:30

長野県松本文化会館 大ホール 入場無料

講演
「認知症の人も 家族も働く仲間も 笑顔で安心して暮らせる社会を」
 講師 勝田 登志子 氏
 認知症の人と家族の会 本部副代表理事
 厚生労働省 社会保障審議会 介護給付費分科会委員

シンポジウム
 〈ヘルパー事業所・大学関係者・行政担当者など〉

福祉用具・介護食品等の展示 など

 主催:10.1介護県民大集会実行委員会
 後援:長野県社会福祉協議会・信濃毎日新聞社など

脳卒中者作品展

力作ぞろい!脳卒中者作品展

県連内4つの病院の脳卒中患者会で構成する「長野県脳卒中者友の会連合会」が主催した第10回作品展が、7月23・24日に長野市東部文化ホールで開催されました。応募作品数は222点。来場者も約190人と盛況でした。各病院や団体からの援助金、ありがとうございました。
(長野中央病院・森 葉子)


東南西北

諏 訪

お舟まつり

今年もお舟まつりで麦茶サービス

8月1日、諏訪地方毎年恒例のお舟まつりがありました。諏訪共立病院では、毎年観光客や氏子のみなさんに病院前で麦茶サービスを行っています。今年は電子カルテの稼働日ということで人手不足が心配されましたが、本部・総務課中心に、手の空いている職員が手伝ってくれて、無事に終わらせることができました。

中 信

「笑い療法士」和泉家志ん冶さん

心から笑いました

7月15日、第1回中信地域連絡会看・介護交流集会が開催され、60人が参加しました。看・介護部方針の確認、事業所の"キラリ"の交流の後、「笑い療法士」和泉家志ん冶さん登場。笑いの効用と古典落語「ときそば」を演じました。「久しぶりに涙や鼻汁まででる笑いを経験しました」「お蕎麦が食べたくなった」などの感想がよせられました。

飯 伊

エコバック配布

かなえひまわり薬局開局10周年

5月で開局10周年を迎えました。県連内5番目の保険薬局として薬剤師9人、事務6人でスタートし、現在、薬剤師14人、事務7人にまで発展してきました。10周年を記念して、患者さんや共同組織のみなさんに、ささやかではありますが記念行事の一環として、エコバックを配布します。

長 野

わたしたちのミント!

わたしたちのミント!

三本柳デイサービスミントは10月で1年を迎えます。7割が男性利用者さんです。1日コースでは皆で昼食作りも行います。最近は料理の腕も上達しメニューも増えました。半日コースではパワーリハビリの他に、手のリハビリと称しカキ氷作り、ダーツ、ブロックで姫路城作成等、全員で知恵を絞りながら毎日楽しく過ごしています。

東 信

組合ボランティアに励まされて

組合ボランティアに励まされて

院所利用委員会のみなさんを中心に、待合ボランティアをはじめて4か月。「今まで苦情処理で後追いだった、前向きで行こう」「職員は一生懸命、対話で患者さんの不安が解消を」と、週2日、患者さんに話しかけたり案内役になったり。「患者さんに気持ちよく過ごしてもらおう」とがんばる姿に、職員は励まされています。

上伊那

伊那まつりの花火を建設予定地・直下で見る会

「伊那まつりの花火を建設予定地・直下で見る会」に25人が結集!

8月7日、東春近支部などの組合員15人、職員・家族10 人の総勢25人が集い、花火を真上に見ながらのバーベキューを楽しみました。打ち上げられる華麗で多彩な花火をゆっくりと満喫。来年の夏には、新たな事業所の建物も完成し事業も始まっています。利用者さんやご家族と一緒に、雄大な花火が見られるといいなぁ。

飯 伊

「平和の杜植樹式」開催

8月6日、「平和の杜植樹式」開催

老健はやしの杜では、昨年度から平和に関する花木を植えています。3回目の今回は、長崎のかよこ桜2世、広島被爆樹シダレヤナギ分身、長崎被爆クスノキ2世、広島市の花キョウチクトウを植樹。式では、広島、長崎市長のメッセージ披露、原爆朗読劇等が行われ、最後に全員で「青い空は」を合唱し、平和への思いを強く誓いました。

長 野

第13次震災地支援で宮城県山元町へ

第13次震災地支援で宮城県山元町へ

7月29~30日、組合員・職員39人で支援を行いました。15歳から70歳台の参加者は、小雨の中、朝9時から草刈、草取り、側溝の泥だしなどに汗を流しました。「震災の様子をテレビで見て、自分も何かしなければと思っていた」「1人ではなかなか行けないが、医療生協の企画があってよかった」など、思いを共有しました。



このページの先頭へ