サイトマップ

  • Get Adobe Reader
  • Get Flash Player

長野県民主医療機関連合会

アクセスマップ

〒390-0803
長野県松本市元町2-9-11
民医連会館2F
TEL.0263-36-1390
FAX.0263-33-1229

機関紙:長野県民医連

第259号 2012.03.25

先は見通せませんが患者さんとは正面から向き合っていきたいと思います

2011年12月まで山形協立診療所長として勤務されていた北野浩二先生は、現在、福島医療生協の「医療生協わたり病院附属ふれあいクリニックさくらみず」の所長を務められています。東日本大震災を機に、「福島の地域医療のお役に立ちたい」と定年まで30年働いた福島の地にふたたび戻り、診療と往診に携わっておられます。現在の様子を知らせていただきました。

北野浩二先生・福島からの手紙

ふれあいクリニックさくらみず 北野浩二所長
ふれあいクリニックさくらみず
北野浩二所長
診療風景
1月から福島市にある民医連の診療所で勤務を始めました。福島に来てからのことをそちらの機関紙に投稿するようにとの依頼がありましたので、印象に残ったことなどを書き連ねてみようかと思います。
*   *

K・Tさんは83歳の女性で、地震・津波と原発事故のために双葉郡浪江町から福島市の仮設住宅に避難し、こちらの診療所を受診されました。ご本人と付添いの民生委員さんからこれまでの生活の様子をうかがいました。
彼女は2人姉妹の妹でしたが、子供が女の子ばかりで兵士としてお国のために役立てないことを恥じた父親が、2人を日赤の看護学校に進学させたそうです。卒業後、姉は従軍看護婦として満州に派遣され、そこで戦死しました。ご本人は卒業した年に敗戦となったので看護婦としてしばらく働き、その後は養護教諭としてその地域の学校に定年になるまで勤務されたそうです。ずっと独身で、退職後は教え子や知り合いの多いそこで生活していました。少し認知障害があったようですが、地域の人は皆彼女のことをよく知っているので生活上の不都合は全くなかったそうです。
今回の震災と原発事故で、精神的ショックや仮設住宅での生活という急激な環境変化のため、認知機能障害が増悪し、仮設住宅での生活は散々な状態でした。
食事や薬の内服もきちんとできず、時に失禁もあるため、往診と訪問看護にくわえて、ヘルパーさんに援助してもらい、薬剤師さんは何回も訪問して内服の工夫をしてくれました。部屋に付いている暖房機を使おうとせず、真冬の夜に外を徘徊するなど、凍死するのでないかと心配したことも何度かありました。
同じ仮設住宅の役員さんにも目配りをお願いしましたが、「私たちも手一杯でこれ以上は無理です」と言われてしまいました。現状を見ていると無理からぬことだったと思います。
3月に入り気候も多少春らしくなり、ご本人も徐々に落ち着きを取り戻しています。民生委員さんの協力で、グループホームへの入所の申し込みも済みました。表情が明るくなり、仮設住宅の集会所に行って体操や会話もできるようになっています。それでも放射能の問題などを考えると、住み慣れた町に戻ることは彼女の生きている間には難しいように思います。
この方の人生の軌跡をうかがっていると、戦争と原発という二つの国策に翻弄された人生のように思え、胸がきりきりと痛みます。
戊辰(ぼしん)戦争以降「白河以北一山百文(しらかわいほくひとやまひゃくもん)」と言われ、中央政府からは冷遇され続けた東北地方ですが、戦時には多くの兵士を、高度経済成長期には若い労働力を都市に送り出してきました。
そうした歴史に加え、今回の事態にたいする政府対応の遅さや不適切さ、被災した農業地帯をも破壊しかねないTPP参加へのこの時期の表明、一部地方政府の「ショック・ドクトリン」的施策の強行は、井上ひさしの『吉里吉里人(きりきりじん)』にちょっと共感してしまうような歴史意識を増幅させるのでは、と危惧する気持ちにもなります。 *   *

診療風景
今回福島に赴任し、支援を送る側から受ける側に回ってみて、その持つ意味、重さが全く違うことを実感しています。全国民医連からの医師支援も今年度いっぱい継続していただいています。民医連新聞の記事ひとつ、全国各地から送られた色紙の言葉ひとつに心がのこり、その言葉を何度も読み返したくなります。先の見通せない状況ですが、私の仕事として、患者さんとは正面から向き合っていきたいと思っています。
あ、言い忘れましたがうちの妻、猫と一緒に家でフリーターしています。もぞもぞし始めたのでそのうち何か動き出しそうな気配です。
〈写真は往診風景〉

ふれあいクリニックさくらみずMAP
(編集部注)
戊辰戦争
1868年(慶応4)戊辰の年から16か月続いた旧幕府軍と維新政府軍の内戦。東北・北陸諸藩は同盟を結び維新政府軍と戦った。
白河以北一山百文
「白河の関より北は、一山で百文にしかならない荒れ地ばかり」という意味。維新政府軍を率いる薩長土肥が東北地方を侮蔑して用いた。
「ショック・ドクトリン」
大惨事につけこんで実施される過激な市場原理主義改革のこと。惨事便乗型資本主義ともいい、カナダのジャーナリスト、ナオミ・クラインが同名著書で批判している。

沖縄から日本の平和を考えました。

第4期ピースゼミナールメンバーの報告

ピーゼミメンバーと沖縄民医連事務局次長の山田義勝さん(前列右端)と長野県連教育委員の本荘幸枝さん(2列目右端)。山田さんには3日間ガイドをしていただきました

第4期ピーゼミは東信から初めての参加者を迎え、13人でスタートしました。4月の第1講座・望月峻成医師の講義から始まり、月1回の講座で学びました。6月のフィールドワーク、10月の中間発表会を経て、2月の沖縄研修にのぞみました。

ピーゼミが沖縄を選んだわけ

健和会病院 小笠原利恵子
私たちは1年間平和とは何か、どのようにしたら平和になるのかを知るために学んできました。学びから沖縄の経済格差があることを知り、基地問題と関連しているのではないかと考えました。実際に目で見て聞いて沖縄の問題を身近に感じ、平和とは何か、基地問題に対してできることはないか考えたいという思いから沖縄に行くことを決めました。

1日目 嘉数高台(かかずたかだい)・北谷町(ちゃたんちょう)・嘉手納基地(かでなきち)

銃撃で破壊されたトーチカ
銃撃で破壊されたトーチカ
無数の弾痕が残る嘉数高台
無数の弾痕が残る嘉数高台
送り出してくれた職場のみなさんと
送り出してくれた職場のみなさんと
悲惨な戦場が今も諏訪共立病院 清水翔鳥

嘉数高台は宜野湾市を一望出来る高台です。戦時中に激戦が繰り広げられた地として知られ、砲弾の跡が残る塀や、中に隠れて銃口のみを外に出して戦ったとされるトーチカもそのまま残っています。引くことを許されない状況の中、悲惨な戦場となっていたことが分かるにつれ、言葉にならない気持ちが込み上げてきました。

嘉数高台の戦争はやしの杜 仲田雄太

1945年(昭和20年)4月1日、沖縄本島の中部西海岸から上陸し、南下した米軍が、嘉数で待ち構えた日本軍と最初の大規模な戦闘を始めた場所です。日米両軍の銃弾・砲弾が雨のように降り注いだそうです。
トーチカ(防御の中心となる陣地)には射撃のための銃眼があり、そこから機関銃等を出して、米軍を銃撃しました。弾痕が無数にあり、鉄筋がむき出しになるほど破壊され、激しい戦争を物語っています。再び戦争の悲しみが繰り返されることのないように。

脱基地で成功した町 ―北谷町―上田生協診療所 月津理恵

北谷町は面積の約53%を米軍用地が占める町です。町内の一部の米軍用地を返還させ、跡地を大型商業施設として利用し経済効果を上げています。反面、基地依存を高めた他の市は失業率が悪化した事実を知りました。経済面をみても「基地が沖縄やその他の基地のある地域にとって必要なものではない!」という事実を実感しました。

2日目 東村高江(ひがしそんたかえ)ヘリパッド建設予定地・辺野古海岸

座り込みのテント前で
座り込みのテント前で
キャンプシュワブとの境のフェンス
キャンプシュワブとの境のフェンス
160人の集落を取り囲むように松本協立病院 佐々木祐子

基地の整理縮小を名目に日米両政府が合意したSACO合意。その中に北部訓練場返還の条件として高江ヘリパッド移設が盛り込まれました。人口160人のこの集落を取り囲むように6か所のヘリパッドの建設が予定されています。最も近い民家からわずか400m。「今まで通りに静かに暮らしたい」。座りこみを続ける住民の願いはごく当たり前のものです。

小学生も勉強しながら座り込み塩尻協立病院 藤村美帆

自然豊かなやんばるの森、絶滅危惧種が188種も生息するこの森にヘリパッドが建設されようとしています。風に揺れた葉のざわめき、鳥の囀り、そこに行くだけで自然の豊かさを感じ気持ちが安らぎました。小学生が勉強しながら座り込んでいる姿、1日も欠かさない闘いの姿を目の当たりにしました。未来のためには、今動くことが必要です。

残したいのは平和上伊那生協病院 矢澤浩彰

辺野古の座り込みに参加してきました。そこでは市会議員の具志堅徹さんをはじめ、座り込みを続けている方々から貴重なお話を聞くことができました。
基地建設阻止に向け、辺野古で座っている方は最前線で闘っていますが、本土でもそれに向けて一緒に闘わなければならないと強く感じました。そして、子供たちに残したいのは基地ではなく、自然豊かで平和な環境だということも感じました。

辺野古が爆音で包まれるのは耐え難い長野中央病院 渡辺はるか

普天間基地の移転先として挙げられている辺野古地域。希少な海洋動物の生息地でもある辺野古の海は、曇空にも関わらずキレイなブルーに輝き、透きとおっていました。基地とを区切る砂浜上の長いフェンスは全国から寄せられた応援メッセージで埋められていました。
この穏やかで静かな空気が、黒く重々しい戦闘機や爆音に包まれてしまうのは、想像するに耐え難いことです。

3日目 糸数壕(いとかずごう)・ひめゆり祈念館・平和祈念資料館

平和祈念公園 平和の礎
平和祈念公園 平和の礎
南風原壕の内部
南風原壕の内部
戦争で失われた学徒をわすれないはびろの里 原 明日香

沖縄陸軍病院とアブチラガマを実際見た後、ひめゆりの塔記念館を訪れました。記念館には学徒動員される前の写真もあり、その時の笑顔からは想像も出来ない戦争の体験を書いた手記や遺品を見て戦争の凄まじさを感じました。多くの学徒たちの命がこの戦争で失われたことを私たちは知り、忘れてはいけないと思いました。

戦時下を生々しく再現上伊那医療生協本部 小林 直樹

平和祈念資料館では、いくつかの展示室に分かれており、沖縄戦についての資料や写真、その当時の実物の着物などが数多くありました。また、館内には沖縄戦体験者の証言を記した「証言集」や「証言映像」があり戦時中の出来事を生々しく肌で感じました。戦争の恐ろしさを覚え、いかに平和が大切さであるかを考えさせる場所でした。

基地を返還させた読谷村諏訪共立病院 山岸 舞

読谷村は村全体の45%が米軍の軍用地にとられています。また戦跡が多く刻まれている場所です。私たちは読谷村飛行場跡、読谷村役場、チビチリガマに行き見学を行いました。読谷村飛行場ではパラシュート降下演習の訓練事故によって住民に多くの被害と不安を与えてきました。村民は一丸となって基地返還闘争を行い、返還を勝ち取り、さらに役場の建設を実現させてきたそうです。役場には日本国憲法9条の碑がたっており、印象深いものとなりました。

ひめゆり学徒隊の足跡を追って(沖縄陸軍病院南は風え原ばる壕群→アブチラガマ)長野中央病院 佐久間綾香

戦況悪化に伴い後退を余儀なく迫られる中、重症患者は青酸カリ入りミルクを飲まされ壕に置いていかれた―戦時では常に弱者が犠牲になることを象徴する出来事です。さらに壕の内部の配置は住民が出口から一番近いところでした。「軍隊は住民を守らない」天皇制と国体護持がもたらした悲劇を、沖縄で目の当たりにしました。

沖縄研修に参加して健和会病院 中塚 麻子

湿気のある空気、緑、花が印象的な2月の沖縄。雨の沖縄でしたがすばらしい自然を肌で感じることができました。また、非暴力である座り込み活動で大切なものを守っている人達の話を聞き、心を打たれました。今まで沖縄の現状を深く知らなかったことを反省し、知ったからには何かしなければ、と思います。沖縄の問題を皆さんにも考えてほしいです。

沖縄県庁前で(この日、野田総理が初めて沖縄を訪問)
沖縄県庁前で(この日、野田総理が初めて沖縄を訪問)

印象的だった東北各県連からの報告 第40回全日本民医連定期総会に参加

来賓のみなさんによる鏡開き

2月23~25日、岡山市で全日本民医連の定期総会が開かれました。全国から604人、長野県連からは26人の代議員が参加しました。1日目・3日目が全体会、2日目は13分散会に分かれ討論が行われました。規約改定における「加盟」・「統制」については、分科会では「継続検討を」の意見がありましたが、賛成多数で可決されました。
今年の総会は東日本大震災から1年たっての開催です。東北の各県連から震災当日から今日までの発言が多く、印象的でした。深刻な状況下、全国からの支援・現地職員の頑張り等が報告され、共感と同時に絆の深さや大切さを痛感しました。支援は継続することに意義があると感じました。
また、「健康権」や無料低額診療事業の取り組み、水俣裁判、薬害、利根中央病院への全国からの医師支援等など、盛りだくさんの報告がありました。
銃撃で破壊されたトーチカ老健はやしの杜の代議員は、広島・長崎にゆかりのある木の植樹を行うなどの平和活動を分散会で発言し、3日目の全体会で長瀬事務局長から紹介されました。
(健和会病院・井原 光子)

[詳細は民医連新聞3月19日号に掲載]

長野民主診療所開設から50年を祝う

長野医療生協専務・谷口 亮一

来賓のみなさんによる鏡開き
来賓のみなさんによる鏡開き

長野医療生活協同組合の前身である長野民主診療所が誕生して50年。2月26日、ホテルメトロポリタン長野で「長野医療生活協同組合創立50周年記念式典・祝賀会」を開催し、長野市長や長野市医師会長などの来賓、組合員・職員など300人が出席しました。
1961年に医師・看護師・事務の3人でスタートした診療所は、医師不足や経営困難を多くの先輩役職員の粘り強い努力と地域の組合員さんの支え、そして長野県民医連の日常的な支援や東京民医連・山梨勤医協からの医師支援などで乗り越えてきました。現在、職員750人、組合員は5万7000人です。
熊谷嘉隆県連会長はあいさつの中で「県連結成の10年以上前から診療所を開設し、医師研修で重要な役割を担ってきました。受診抑制の中、いのちを守る民医連の輝きが増しています」と述べました。50周年を契機に、より地域に根ざした医療・介護の展開を進めていきたいと思います。

過去最高!医学生30人が参加 県連・卒後研修説明会行われる

GHふきぼこの友の会員交流ルームにて
GHふきぼこの友の会員交流ルームにて

8施設から17人が参加して初めての交流会が開催されました。施設見学、指定報告「初めての看取りを経験して」に続き、各GHから発言し、交流しました。認知症状の違いやケアの悩み、職員体制の苦労等、同じ悩みをかかえての意見交換は白熱しました。
介護報酬改定で経営は厳しくなりますが、地域の方たちやご家族との連携で、地元に根付き愛される民医連施設になろうと思う気持ちが共有できました。
(GHふきぼこ 相渡さゆり)

県連内のグループホーム

  • [長野]
  • 栗田ゆうゆう
  • [中信]
  • あずみの里/なのはな/ふきぼこ
  • [諏訪]
  • さくら/高尾
  • [諏訪]
  • ひなたぼっこ
  • [飯伊]
  • ひだまり/こかげ
  • [上伊那]
  • なないろの家(4月開所)

消防署と5年ぶりの救急事例検討会

2月29日、諏訪共立病院で諏訪広域消防下諏訪消防署と合同救急事例検討会を行いました。参加者は消防署から20人、病院から27人でした。
諏訪共立病院は、下諏訪消防署が搬送する患者の23.5%を受け入れています。今回は受け入れた3例について検討しました。消防署職員から症例報告、つづいて担当した医師から病状や治療経過を説明し、処置方法や搬送中の注意点など活発な意見交換を行いました。1時間半と短い時間でしたが有意義な時間を共有できました。
今年度は救急救命士の就業前研修の受け入れや救急救命士の病院研修を受け入れています。日常的にも交流を持ち、顔の見える関係に力を入れています。
(諏訪共立病院・小島より子)

先輩職員にも刺激に事務育成総会開催

事務育成総会開催

飯伊民医連は2月25日、事務育成総会を開催しました。1年目~ 3年目職員が研修を報告し、ゆいの里からは施設版育成要綱(案) の説明が行われました。
若い職員の報告に、先輩職員からは「よくがんばった。自分たちもしっかりしないと」「中堅以上の教育計画の充実を」反応があり、大変盛り上がりました。交流会にも40人が参加し、専務、事務長まで歌って踊って交流しました。
( 健和会病院・田中 衆)


第14回長野県連学運交 開催 原発のない長野県こそ大きな運動でリードを

平野治和福井県連会長が記念講演

2月18日、松本大学で開催された第14回学術運動交流集会に県連全体から390人を超える参加がありました。テーマは「絆~平和で核に依存しない社会、復興と新しい福祉社会をめざして~」です。

記念講演は福井県連会長の平野治和医師(全日本民医連緊急被ばく事故対策委員会顧問)が「福島原発事故から何を学ぶか」と題して講演しました。平野医師は多くの映像や資料を用いて、原発の仕組みや内部被ばくは細胞が若い程影響が大きいこと、放射能被害に苦悩する現地の言葉や著名人の発言などを紹介し、多様な切り口で今回の原発事故について語りました。
また、全日本民医連総会方針で今後の重点方針となっていることに触れ、「原発のない長野県こそ大きな運動でリードしてほしい」「今日、ここに参加されている一人ひとりが『自分になにができるか』を考え、行動してほしい」と講演を閉じました。

第14回長野県連学運交 開催平野治和福井県連会長

参加者の感想から

福島では子どもが年間1ミリシーベルトの線量をあびているのに、国は「安全」という認識。医療機関の放射線管理区域で働いている人と同程度の線量であるという話を聞き、本当に安全なのか? と思った。
昨年10月の福島集会の紹介で、子どもの「大人の人に聞きたいです。大事なのは原発ですか?ぼくたちの命ですか?」という言葉がとても心に残った。
「被害者」であると同時に50基以上の原発を作ること、維持推進することを黙認してきた「加害者」でもあるというお話に、大変考えさせられた。
事故直後、原発事故の放射性物質拡散の情報をアメリカには知らせ、住民には知らせなかった。住民は汚染地域へ向かって避難したと聞き、国・政府に対して怒りを覚えた。

3.11県下各地で大行動 原発なくせ!再稼働させない!

東日本大震災・東電原発事故から1年。県下14会場で、犠牲者への鎮魂、復興への誓い、
そして原発ゼロへの決意をこめた集会とデモ行進がかつてない規模で行われました。

松本市

松本城公園に1,800人
松本城公園に1,800人

「NO!原発 脱原発 サラバ原発 3・11長野県大行進」は、7人のスピーチから始まりました。デモ行進直前、松本城の青空に解き放たれた500個の風船。1800人の参加者の脱原発への思いと連帯感を確信できた瞬間でした。

柴田憲子塩尻協立病院総師長もステージで発言
柴田憲子塩尻協立病院総師長もステージで発言
風船を用意した若い職員たちは「こんなに多くの人が原発の廃止を願っているって、すごいです!」「職場で参加者が少なかったけれど、粘り強く取り組みを続けてみんなを誘ってこれました」と語りました。集会への130人の職員と40人の友の会会員の参加は、青年職員たちの大きな確信となりました。
(松本協立病院・吉越謙一)

長野市

長野駅前をゆく長い列
長野駅前をゆく長い列

「NO!原発 脱原発 サラバ原発 3・11長野県大行進inながの」に、職員・組合員70人が参加しました。

パレードの先頭にたつ市民のみなさん
パレードの先頭にたつ市民のみなさん
午後2時からの南千歳公園の集会では、福島のお母さんの詩の朗読、児童文学者や俳人、原水禁代表や市民が次々にマイクを握り、「脱原発」1点での共同を実感。2時46分、黙祷で静まる会場に「アメージンググレイス」の歌声が響きました。集会後の1000人のパレードは圧巻で、沿道では女子高生、現役自衛官、ミスド前のギャルなどが「がんばって」と署名に応じてくれました。
(長野医療生協・小野高聰)

伊那市

長野駅前をゆく長い列

「3.11脱原発上伊那集会~はじめてのデモ~」が行われ、出発会場の伊那市役所には200人を超える参加者が集まりました。「上伊那退職教員の会」や「農民組合」などの団体からのあいさつの後、10時半から伊那市内を1時間程かけて行進!参加者は仮装をしたり自作のプラカードを持ってアピールしました。ネットで知り飛び入りで参加した親子、車から手を振ってくれる人など、関心の高さを再確認しました。
(上伊那生協病院・小林千里)

上田市

3月11日は「いのちと原発を考えるつどい」
3月11日は「いのちと原発を考えるつどい」
3月10日・パレードの先頭は子どもたち
3月10日・パレードの先頭は子どもたち

3月10日は雪が舞う寒い日でしたが、約100人が上田城跡公園から駅前へパレード。子ども連れの若いお母さんたちも参加し、「自然エネルギーでええじゃないか」とアピールしました。
3月11日に上田勤労者福祉センターで行われた「いのちと原発を考えるつどい」には約200人が参加しました。

岡谷市

諏訪湖岸を約200人がアピールウォーク

脱原発諏訪連絡会主催で「今、女たちが原発を止める」と題し、諏訪湖岸を約200人がアピールウォーク。続いて諏訪湖ハイツ内で「女性の声を聞く集い」を開催しました。太陽光発電で「光合成LIVE」をする歌手・美咲さんの歌声、浜岡原発廃炉請求訴訟の弁護士や原発事故避難者の訴え、記念講演では原発を告発し続ける映画監督・鎌仲ひとみさんから、「私たち一人ひとりが声を出し、行動し続けることが必要」とのメッセージがありました。職員17人、泉の会員多数が参加しました。
(南信勤医協・花岡 進)

飯田市

ライブ
連凧揚げ

3月11日、JR飯田駅前で「NO!原発 脱原発 サラバ原発 3・11飯伊地区集会」が開催され、300人が集まりました。福島出身の職員の訴えや連凧揚げ・ライブなどが行われました。
健和会では「原発をなくしたい、わたしの声とどけ」の一言カードを模造紙いっぱいに貼り付け、はやしの杜では横断幕に寄せ書きし、その他プラカード・Tシャツなどに、脱原発の思いをこめてパレードしました。
(健和会病院・近藤 健)

茅野市

映画「あしたが消える」上映と福島原発避難者のお話を聞く会

3月10日、映画「あしたが消える」上映と福島原発避難者のお話を聞く会が茅野市家庭教育センターで開かれました。前日からの大雪にもかかわらず、180人が参加しました。
映画「あしたが消える」は骨癌で亡くなった福島原発作業員の原因究明する中で危険性を告発する映画です。上映会後、茨城県日立市から神奈川県を経て諏訪市に避難された湯浅さんのお話を聞きました。

富士見市

脱原発を考える集会

3月11日、脱原発を考える集会がコミュニティ・プラザで開催。放射能の危険性などを報道しているメディアディレクター河内延安さんの講演会が行われ、30人が参加しました。当日、「原発ゼロ・自然エネルギーへの転換を求める富士見町連絡会」が結成されました。



このページの先頭へ