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長野県民主医療機関連合会

アクセスマップ

〒390-0803
長野県松本市元町2-9-11
民医連会館2F
TEL.0263-36-1390
FAX.0263-33-1229

機関紙:長野県民医連

第279号 2014.01.01

介護保険改悪反対! 怒りの大ウェーブはここから

人権のリレー国会を動かす

長野地域連絡会の発信で「生保改悪法」に歯止め 相談活動をするMSW

デイサービスは効果あるものだけ

生活保護制度は、生きるための最後の砦です。改悪法は、親族への扶養義務を強化し、申請書類を厳格にするなど、受給させないための「水際作戦」を合法化するものです。
12月6日、衆議院で可決成立しましたが、現場職員の気づきにより、改悪法運用に歯止めをかけることができました。

小池議員に現場の声を届ける上伊那の職員(上)、生保改悪に反対して多くの人たちが詰めかけた(参議院議員面会所)(下)
小池議員に現場の声を届ける上伊那の職員(上)、生保改悪に反対して多くの人たちが詰めかけた(参議院議員面会所)(下)

「お金がなくなる。退院して仕事に戻りたい」

Aさんは、50代の独身男性。高血圧、狭心症、糖尿病でしたが、治療を中断していました。9月、脳梗塞を発症し入院となりました。
「入院すれば9月の給料が最後。退院して仕事に戻りたい」とAさんは望みましたが、仕事の継続はむずかしいとMSWが相談にのり、生活保護(以下、生保)申請をすすめました。
Aさんは迷いながらも兄弟に相談、車も処分して入院中に申請を行いました。10月末の退院時には反貧困ネット長野が自転車を用意し、Aさん自身も新たな人生に前向きになっていました。

これは生保改悪の先取りか!?

小池議員に現場の声を届ける上伊那の職員(上)、生保改悪に反対して多くの人たちが詰めかけた(参議院議員面会所)

ところが11月6日、MSWに「兄弟に扶養照会の届書を書けないと言われて困っている」という相談が寄せられました。
書類は、兄弟の世帯収入、資産、ローンの状況、家族の勤務先などの記載、源泉徴収票、給与明細書、ローン返済予定表の添付まで要求。さらに保護にあたっては、「扶養義務者の扶養(援助)を優先的に受けることが前提」という記載までありました。
兄弟は、「この書類に記入すれば同居の息子家族にも迷惑がかかる。書かなくちゃないなら申請は取り下げます。今回の入院費は私が支払います。でも次からは...」と言い、Aさんからも辞退の申し出がありました。
MSWは「これはあまりにもおかしい」と、県連内のMSWや反貧困ネットの担当者に相談したところ、「改悪法をもう始めてるのか?」と大騒ぎになりました。
県連事務局から全日本民医連へ、そして参議院厚生労働委員会で生保改悪法案を追及することになっていた、民医連医師でもある小池晃議員(日本共産党)の知るところとなりました。

「生保申請を妨げてはならない」と厚労大臣が通達

11月7日の委員会で、小池議員は長野市の扶養届書を示して追及し、同様の事態が他の自治体でも起きていると指摘しました。その結果、田村憲久厚労大臣は「親族の扶養は保護の前提ではない。きちんと指導する」と答弁、8日には是正文書が全自治体に通達されました。
その後長野市と同様の違法な文書が、全国436の福祉事務所で使用されていたとわかりました。
さらに、改悪法が長野市のような水際作戦を合法化し、助長するという小池議員の指摘に、12日の委員会では「申請権が侵害されることのないよう、これまでの申請方法や資料の取り扱いに変更なし」「扶養義務者に扶養義務の履行が認定の前提や要件にならないと知らせ、要保護者が躊躇したり、家族関係を悪化させないように十分配慮する」など7項目もの附帯決議がつけられました。

現場の声で政治を変える

8日、長野市から「届書なしでも申請できます」という連絡が入りました。Aさんは後日、「ありがとうございました」と笑顔で相談室に寄ってくれました。
MSWは、「長野市の生活保護受給者は約3000人、そのうち300人が毎月当院を受診する患者さんです。最後の砦なのに今回のように生保をあきらめさせようという水際作戦が存在します。大騒ぎになりましたが、結果として他の人も救われたと思うので声をあげて良かった。附帯決議②の『水際作戦があってはならない』は、当然です。行政はしっかり対応してほしい。また、相談員だけでなく、全職員が、自分が関わり合う人にどれだけ寄り添えるかが大切だと思います」と話します。

こんなにも身近に、「心なき福祉」のような事例があったこと、わずか2日で国会で追及されたことに問題の重大性を実感しました。悲劇を生まない政治には、私たちがSOSをキャッチし、「おかしい」と声を上げること、あきらめないことが何より大事だと痛感しました。

(長野地域連絡会 編集委員・蟹澤 智)

「特定秘密保護法」成立強行に抗議

長野県民医連会長 熊谷 嘉隆

戦後60年以上守り続けてきた、国民主権、基本的人権、戦争をしない平和国家を形づくる日本国憲法が、2013年12月6日深夜、安倍自公政権による特定秘密保護法の強行採決により蹂躙された。この暴挙に対し長野県民医連を代表して厳重に抗議する。
情報公開と国会の調査権、調査報道の自由と国民の知る権利の保証は、民主国家の基礎である。苦し紛れに内閣府や内閣官房に設置するといわれる「監査委員会」は、泥棒が泥棒の仲間で泥棒を取り締まる機関を作るのと同じで茶番劇である。
国民の知る権利を刑罰で取り締まり、情報を統制し、立法府(国会)・司法を抑え、行政府に権力を集中する法律は、戦前の治安維持法、ヒトラーの全権委任法と同じである。しかもこの法律は、国民の知らない軍事・核・外交上の秘密情報をアメリカと共有する仕組み(安全保障会議)の中で動いていることは、一層国民の利益を損なう危険で売国的な法律である。
強行採決は権力の危機感の表れでもある。国民の権利を蹂躙する無知で愚かで狂暴で、三権分立という民主国家の基本も知らない烏合の衆の安倍自公政権を、いよいよ政治の舞台から引きずり降ろす国民運動が急務になった。

キラリ!民医連 つながろう ともに歩こう

医療や介護の実践のなかで、私たちは患者さんや利用者さん、家族と深くつながり、ともに歩んでいます。人として生きる権利をなにより大切にしてきた民医連だからこそのキラリと輝く実践を紹介します。

健和会病院
聾唖(ろうあ)の家族を持つ患者と関わって

3-1病棟看護師 熊谷 由香理

入院当初の困難

私たちは80歳代のTさんの入院治療を受け持ち、その3人の子どもたちと関わることになりました。聴覚障害(聾唖)のある子どもたちを、Tさんは妻の死後35年間、男手ひとつで育ててきました。
入院当初はご自身の病状と向き合えず、医療拒否が見られました。また子どもたちは親戚、友人、近所づきあいが希薄だったため、病気や介護の知識が欠如していて、「酸素は毒だ!」「内服は毒薬だ!」という発言もありました。医師・看護師と有効なコミュニケーションが図れず、父親の病状の理解が困難な状態でした。


子どもたちの変化―医療者への信頼が生まれた!

しかし、私たち病棟スタッフは力を合わせて、根気強く関わりを続けました。医師・MSW・民生委員など多職種を交えて定期的にカンファレンスを行い、また医療者側の対応の仕方の徹底、統一を行いました。
その結果、子どもたちの表情や認識力に変化が現れました。子どもたちは徐々に医療者を信頼してくれるようになりました。治療を拒否する父親(Tさん)を説得しようとする姿も見られ、医療者に積極的に治療について相談してくれるようにもなりました。
残念ながら治療の甲斐なくTさんは永眠されてしまいましたが、私たち医療者は1か月弱という短い入院期間のなかで、聴覚障害の子どもたちと歩み寄ることができました。振り返って考えれば、患者家族と医療者の両者ともがTさんに対して最善を尽くせたと思います。


子どもたちから「ありがとう」
病棟での熊谷さん(左)
病棟での熊谷さん(左)

Tさんの葬儀のあと子どもたちが来棟し、くださったお礼の言葉「ありがとう」、この言葉に私たちは心が満たされました。
今回のTさんとそのご家族との関わりは、①患者・家族の生活環境・人生過程を十分に把握し、②さまざまな職種が積極的に連携し、③患者・家族・医療者が互いに認め合った医療を提供することが重要だと、あらためて学ばせてもらいました。



塩尻協立病院
あきらめないで-受診に繋った小児

外来看護師 熊谷 峰子

訪問を繰り返した7か月
外来風景
外来風景

A君、12歳。2010年10月、喘息発作で当院受診後、M病院へ紹介入院となりました。肥満・肝機能障害・脂肪肝もあり、定期受診か施設入所が必要と両病院の医師間で判断されていましたが、中断。
13年に医師・MSWから情報提供があり、母親は外国人で意思疎通が難しいため、父親と関わることになりました。しかし、携帯電話は止められていて連絡不能。
4月12日、1回目の自宅訪問。両親は不在で、A君と話しメモを渡してもらうことにしました。「お金のことで来たの?」「病院に行きたいけど連れて行ってもらえない」と、咳で胸を詰まらせながらの言葉に、家族が抱える経済的問題も見え隠れしました。
5月、MSWと訪問。6月の訪問時に母親に無低診のパンフレット・医師体制表を渡し受診を期待しましたが、来院されず。その後、再、再、再度の訪問で父親に会え、深めた会話ができました。


「A君、来ました!」

受診約束日の8月22日、早朝出勤前に「お待ちしています」と優しく受診を促す手紙をA君宅のポストに投函し待ち続けましたが、受診されずあきらめかけました。
8月29日、「A君、来ました!」という一報があり、外来スタッフに鳥肌が立つほどの驚きと安堵が。医師からの説明後、車のない母のためにMSWが付添い、ようやくM病院への橋渡しができました。入院が困難なら当院で無低診を使いながら可能な限り受け入れよう、学校や児童相談所とのカンファレンスもと考えていた矢先でした。
その後、検査データは改善、栄養指導と月1回の受診を継続し、これまで学校行事は欠席していた(おそらく経済的理由で)A君が修学旅行に行けたと知り、大きな喜びとなりました。

*          *

今回、個々の疾病のみでなく生活・経済背景まで踏込み、どのように支えていけばいいかチームとして取組み、粘り強く実践することの大切さを学びました。今後も社会に目を向け、患者さんの背景にあるものを見逃さないチーム医療が行えるよう、外来の役割を担っていきたいと思います。



ゆいの里 デイサービスセンターおよりて
昼食づくりで認知症利用者さんがいきいき

相談員 原 耕平

利用者さんと一緒に昼食づくり
利用者さんと一緒に昼食づくり

「およりて」では、午前中にお昼の一品と、お味噌汁を利用者さんと一緒に作っています。その理由は大きく2つあります。
ひとつめは、家庭のような暖かい雰囲気を作りたかったことです。ご飯の炊けるいい香りが漂い、温かいものを温かいうちに召し上がっていただきたい。昔は台所を任されていた方が多い中、ただ出されたものを食べるのではなく、料理する工程も含めた食事として楽しんでいただきたい。また、そうすることによって食欲がない方の改善にもつながるのではないかと考えています。
もうひとつの理由は、少しでも生活を取り戻し、役割を感じていただきたかったことです。「およりて」の利用者さんは全員認知症を患っています。自宅では認知症が進むにつれ、どうしてもひきこもりがちになり、火や包丁は危険なので使わせてもらえず、家族の中でも役割がない、という方は少なくありません。「およりて」でお昼を作ることは、その失われた生活を取り戻し、何かの役に立ったと感じられる機会になっています。


嬉しい気持ちが"安心の在宅生活"につながる
嬉しい気持ちが

料理するのを見ているだけの方もいますが、そういう方には味見で参加してもらいます。そうすると「ちょっと甘いな」などと、教えてくださいます。これだけでもその方の役割が十分発揮されていると思います。
ご家族との話で、「認知症が進行して、家でも落ち着いていられない」、そんな声を聞くことは少なくありません。せめて「およりて」に来た日は、何があったかは忘れても心に残る嬉しさやワクワクを家に持って帰ってくださればと思っています。それが、安心して在宅生活を送ることにつながってくると信じています。
最近いただいた利用者さんからの嬉しい言葉を紹介します。
「あんなぁ、この前デイでみんなでシソの実をとって煮たら?家に帰ってから、久しぶりに自分で畑行ってシソの実とって佃煮を煮てやったんな。そしたら、家族がみんな美味しい美味しいって喜んでご飯食べてくれたに」(満面の笑みで)



上田生協診療所訪問看護ステーション
患児の見守りで、母親が健診

看護師 市川 美穂

「看護師の見守り」を実施
健診風景
健診風景

当ステーションは、現在約100人の訪問を行っています。老老世帯も多く、介護者が外出するためには、他の誰かに見守りを頼まなければ出かけられない方も多くいます。デイサービスやショートステイを利用できる場合は、その合間に外出することも可能ですが、利用されていない方もいます。
ALS(筋萎縮性側索硬化症)で呼吸器をつけている方のご家族は、「看護師の見守り」を週1回設け、ご自分の受診や買い物などの時間を作っています。また、呼吸器や酸素を使用している小児もおり、他の兄弟の用事や役所へ行くなど、日中の外出が必要なときに「看護師の見守り」を利用しています。


「家族の健康が大事」と健診をバックアップ

2年程前、30代の娘を1人で世話していた母親の咳が良くならず、やっと受診をしてもらったところ、肺ガンが進んだ状態で発見され、娘は施設入所になってしまいました。また、妻を1人で介護していた夫にレントゲンで肺ガンが発見され、妻は施設入所になってしまったケースもありました。
訪問看護は、本人はもとより家族の健康状態についても気を配り、声をかけ、顔色や疲労の様子を見たりしていますが、このようなことがあってから、健診の大切さを痛感し、より一層家族の健康を考えるようになりました。
今回は呼吸器をつけている10か月の小児の母親から、特定健診受診の相談がありました。特定健診は当診療所で受けられることを確認し、健診室に相談しました。
訪問看護師が見守りに行ける日、母親の都合、特定健診の実施日の都合を合わせ、できるだけ待ち時間が少なく、スムーズに健診が受けられるように健診室スタッフに配慮してもらいました。一度は予約日に子どもが入院となってしまいキャンセルになりましたが、退院してから再度調整し、健診に繋げることができました。
これからも多方面と連携をとり、介護者の健康と利用者の安全な生活が継続できるように配慮していけたらと思っています。



医学対
医系学生、ランチタイムミーティングに集う

県連医学生担当 柴田 尚史

食事はビュッフェ方式
食事はビュッフェ方式
事務局前は自転車でいっぱい
事務局前は自転車でいっぱい

県連事務局では信州大学の医系学生を対象にしたランチタイムミーティングを毎月2回、夜の学習会を1回行っています。1年生を中心に毎回約15人が参加して和気あいあいと賑やかです。
今年度の特徴は、奨学生自身が友達を誘って参加していること。春から昨年の倍が参加しています。 友達を誘った女子学生は「学年、学科に関係なく交流ができて、学校ではできない学習ができます。それに、ここに来ればお腹いっぱい食べられるのが素敵。いい取り組みですよね」と話します。
今後も学生が友達を誘えるような雰囲気の良い企画を作り、多くの学生とつながっていきたいです。



高齢者住宅つるがの風
入居者さんがフリマに出店!

介護福祉士 藤澤 寿実

「長野中央介護センターつるが」の周りの植え込みに育つ草花やハーブ。散歩やリハビリで眺めていた「高齢者住宅つるがの風」入居者さんと職員から、「このハーブで、手作り小物を作りたい」「フリーマーケットにお店を出して販売してみたら」という声がどちらからともなくあがりました。
時間を見つけては、少しずつ「手仕事」でラベンダースティック、におい袋などを50個近く作り上げました。
9月14日、フリーマーケット当日。「いらっしゃいませ~、どうぞ見ていってください♪」売り子の入居者さん。自分で売るのだから熱が入ります。全体の売り上げは1万4000円以上!次回のフリマは2014年春に開催予定です。

「つるが」1階に出したお店。優しい香りに評判も上々
「つるが」1階に出したお店。
優しい香りに評判も上々
ハーブを入れる袋をチクチク
ハーブを入れる袋をチクチク

老健はやしの杜
「どうしてもはやしの杜に来たかった」

療養部長 山﨑 厚子

ぬり絵を楽しむ畑中さん
ぬり絵を楽しむ畑中さん

歌が大好きではやしの杜のうたごえ喫茶ボランティアさんだった畑中さん。もともと悪かった肝臓の病気が悪化し、当施設のデイケアに週3回通っています。
「医者から夏が越せるか冬が越せるかとまで言われていたのに、近所の人から顔色がいいねと言われたり、家族にも杖の音が軽くなったといわれたの」「職員さんみんなが手を振ったり、声をかけてくれる。リハビリをしてもらい、歌を歌い、お風呂に入って、みんなとの触れ合いが楽しみ。どうしてもはやしの杜に来たかった。みんなの力をもらって私も頑張らなきゃって思う」「春になったら外を散歩して、お花見を目標にしているの」
畑中さんの生き生きとした表情と笑顔に、私たちのほうが元気をもらいがんばれます。春には桜も笑顔も満開になることになるでしょう。

キラリ!民医連その2

DAISYデイジー ふくしまの今に逢いにいく。 中信地域連絡会

活動のフィールドに枠をはめないことは、民医連運動の大きな特徴です。社会の不条理や生きにくさを変えていこうと、つながり、ともに歩む取り組みがあります。

大澤さん、野口さんの報告で福島の今を知る
大澤さん、野口さんの報告で福島の今を知る
南相馬市。橋は壊れたまま
南相馬市。橋は壊れたまま
浪江町と南相馬市の境
浪江町と南相馬市の境
請戸小学校体育館。津波が到達した時刻で時計が止まっている
請戸小学校体育館。津波が到達した時刻で時計が止まっている
慰霊碑に手を合わせる参加者
慰霊碑に手を合わせる参加者
あずみの里健康まつりで財政活動
あずみの里健康まつりで財政活動

「あなたと同じ気持ちです」

2011年3月11日の東日本大震災と福島第一原発の事故から約2年半がたち、被災地を遠く感じるようになってはいないでしょうか。そんな中、松本協立病院医事課の森芳恵さんが、福島のわたり生協病院の大澤由記さんと出会いました。そこで聞いた「福島の今」を自分だけの中で終わらせたくない、多くの仲間と共有したいと、「DAISY ふくしまの今に逢いにいく。」という企画が6月に始まりました。
デイジー(ひな菊)の花言葉は、「あなたと同じ気持ちです」。その思いを胸に、青年を中心とした実行委員会を設け、準備を進めました。実行委員会では、避難区域の基準と現在の区域に至るまでの経過、放射線と放射能の種類や違いなどの学習会を開きました。また、健康まつりや連絡会の事業所に出向いて福島農民連の物資を販売し、財政活動を行いました。多くの協力を得て、11月23日、福島行のバスが29人を乗せて出発しました。


「福島の今」を知る

1日目は、福島の今を知る情報交換会を行い、大澤さんと福島県相双地域ボランティアセンターの野口徹郎さんのお話を聞きました。
大澤さんからは、放射線の影響で子どもたちが自由に遊べず、ストレスを感じていることを聞きました。そして「それを素直に表現する子どもを見て、大人ももっと素直に意思表示をすれば世の中が変わるのではないか」との言葉に大いに共感しました。
また、放射線について、「正しい知識を持ち、理性的に恐れる」という言葉が印象的でした。翌日の視察で屋外に設置されている線量計を何か所か確認しましたが、原発に近いほど線量が高いというのは誤りで、天候などの条件が関係していると知り、大澤さんの言葉の意味を実感しました。
野口さんが一番強く訴えたのは、野田民主党政権が出した「原発事故収束宣言」の撤回。今、この収束宣言によりあらゆる支援や賠償までもが収束の方向へ進み、復興を阻んでいるそうです。


「福島の今」を見る

2日目は、居住制限区域である飯館村を通り、避難指示解除準備区域の南相馬市小高区と浪江町請戸地区(原発から約5㎞)の視察を行いました。
いまだにがれきが撤去されない町や荒れ果てた農地が広がる光景、3・11から時が止まり、住民が戻れない町を走っていると、これは震災による自然災害ではなく明らかに原発事故による人災であることを実感しました。
また、放射能汚染された廃棄物が、黒いシートで覆われ積み上げられた廃棄物仮置き場を見て、事故収束には程遠い現実を思い知らされました。

*   *

今回の企画で、「福島の今」に逢うことができました。そして当院で勤務されていた北野先生や地元の青年とも交流を深めることができ、福島の人たちの現状や気持ちを知りました。福島に友人、知人ができた今、福島の事はもう他人事ではありません。福島のみなさんと共に復興と原発ゼロへの道を歩んでいこうと、強い決意を抱くことができました。

「おとこ介護もいいんだに」 行政との共同で男性介護者のつどい

上伊那医療生協 はびろの里・事務長 古畑 克己

介護者の3割が男性

料理にも挑戦
料理にも挑戦

現在、男性介護者は全国で約120万人、介護者全体の30%を超えています。老老介護、認認介護、遠距離介護など介護が多様化する中、男性介護者が増え続けています。
男性介護者のつどいを立ち上げたきっかけは、2011年9月のはびろの里まつりで全国男性介護ネットの津止正敏先生の講演会でした。男性介護者は、地域住民との関わりが薄く孤立しやすい、買い物や炊事など家事労働への強い負担感もある。働き盛りの介護離職は大きな社会問題になっているということでした。他人ごとではないと思いました。
当施設のケアマネジャーに実態を聞くと「虐待とはいえないが、男性介護者の気になるケースが増えている」とのことでした。また、伊那市に男性介護者の割合を聞くと全国と同じ30%超、行政でも気にはなっているが介護者の会には男性は参加しづらいのか来ても長続きしない。地域でワークショップ等の活動をしていた経験から、「もし、古畑さんがやってくれるなら、行政としてもサポートします」と言われました。地域連携を視野に、伊那市と南箕輪村の地域包括支援センターがサポート役、医療生協がコーディネート役という三者の共同ならきっとうまくいくはずと、早速発足を呼びかけました。
同年11 月に始めたところ10人以上の参加があり、会の名称を「おとこ介護もいいんだに」とし、伊那市社協の会議室を会場に月1回運営しています。新しい取り組みが注目され、NHKまで取材に来ました。
例会は、男性介護者同士の対話を大切にしています。「毎日、食事作りが頭から離れない」「50年以上も毎日食事をつくってもらったので恩返しのつもり」「妻を施設に預けたが、一緒にいてほしいっていう気持ちを抑えられなくて毎日施設に通っている」などと男泣きする方もいます。「同じ立場だからわかってもらえる」「自分一人じゃないと思える」という心の癒しの場になっているようです。

入会が今年一番嬉しかったこと

13年12月、にぎやかな忘年会
13年12月、にぎやかな忘年会

昨年12月の忘年会で、鍋を囲んで今年1年で嬉しかったことを聞いてみたら「この男性介護者の会に入れたのがよかった」と言ってくれた人がいました。親の介護にケアマネさんを中心にヘルパー、訪問看護など合わせて20人くらいが関わってくれ、さらにこの会の皆さんとも出会い、「これだけ自分たちを支えてくれる人が周りにいる。世界が広がった」と話してくれました。私は皆さんのそんな言葉に毎回じ~んときます。教えられることばかりです。 
今年は3年目に入りました。昨年作った長野県内のネットワークを土台に、県内いたるところに男性介護者のつどいが出来るようサポートしていきたいと思います。

NO WAR! 平和憲法守る私の声 8

長野県民医連は、1974年8月25日に結成され、今年で40周年を迎えます。長野診療所・和田病院(現健和会病院)・松本診療所・諏訪共立診療所による全国で25番目の発足でした。
諏訪共立病院は同年6月、諏訪共立診療所として診療を開始しました。数日前まで医師が決まらない状態でしたが、甲府共立病院(山梨民医連)から日替わりで医師支援を受けていました。2013年11月17日、「南信勤医協40周年誌」座談会で開設当時の職員が語り合いました。

13年12月、にぎやかな忘年会
晴れやかに!長野県民医連結成総会ひらかれる(1974年)

必死の医師確保

当時の諏訪共立診療所は、診察を17時過ぎに終了し、そこから事務職員が車で甲府まで医師を送りました。片道約3時間かかり、20時から21時くらいに甲府共立病院に到着しました。しかしここからが問題。次の日の医師を連れて諏訪に戻るのですが、お目当ての医師は遅くまで仕事をしているので、甲府出発は深夜、諏訪到着は日をまたぎ、毎晩睡魔との闘いでした。
さらに諏訪に到着後、医師を囲んで宴会が始まるのです。診療所に住み込み状態の職員も多かったので、明け方まで続きましたが、ただ騒ぐのではなく、山梨民医連の若い医師から毎晩、新しい医療や政治の話を聞き、非常に勉強になりました。青年医師にとっても、この経験が医師人生にとってかけがえのないものになり、山梨民医連を支える幹部医師へと成長していきました。


民医連看護師の意地

諏訪共立診療所開設時の職員。前列左から山形弘喜さん、田尻基治さん、三羽啓史医師、広瀬悦三さん、後列左から市川美恵さん、鳥羽昭子さん、山形孝子さん、坂本(新津)みさ子さん
諏訪共立診療所開設時の職員。前列左から山形弘喜さん、田尻基治さん、三羽啓史医師、広瀬悦三さん、後列左から市川美恵さん、鳥羽昭子さん、山形孝子さん、坂本(新津)みさ子さん
座談会で民医連の原点を熱く語った参加者。前列左から、山形弘喜さん、有賀康代さん、広瀬悦三さん、後列左から、鮎沢豊子さん、山形孝子さん、新津みさ子さん
座談会で民医連の原点を熱く語った参加者。前列左から、山形弘喜さん、有賀康代さん、広瀬悦三さん、後列左から、鮎沢豊子さん、山形孝子さん、新津みさ子さん

宴会が終わり、しばしの仮眠の後、7時半からは朝の学習会です。きっかけは診療所オープンの際、初代所長の三羽啓史医師の「勉強しない看護師より有能な事務のほうが良い」という言葉が、看護師の心に火をつけたからです。看護師が医師に頼み、全職員で新しい検査や医療技術、保険請求などを教わりました。
昼休みには、症例検討会が全職員参加で行われました。みんなが患者の状態・検査データまでも共有し、一人ひとりに寄り添いました。  医師は日替わりだったので、「職員が診療所の顔」という意識でした。自分達が患者と地域を守らなければという気持ちで、掴んだ情報を必死で医師に伝えました。カルテや検査データを見て、医師が見逃している事も指摘しました。
意見の衝突はありましたが、職員がやりたいことに医師は駄目だと絶対に言いませんでした。「責任は取るからやってみろ」との言葉で、職員も医師が求める高いレベルに達するよう必死で頑張りました。


仕事に垣根なし

8人の職員は、自分以外の仕事も何でもやりました。看護・技術・事務の間に垣根はなく、掃除や雪かきも手の空いている職員が行うのが当たり前でした。
保険請求は提出期限が今より早かったために業務時間外でやるしかなく、死にもの狂いでした。甲府から来た医師までもが電卓をたたきました。そして締切日の朝、レセプトを提出するため急行列車で長野に向かう事務をみんなで送り出しました。


圧力に負けず地域とともに

開設時の諏訪共立診療所

開設後2年間は諏訪郡医師会に入れませんでした。当時、下諏訪町は開業医のみで、休日・夜間対応の医療機関がありませんでした。それに対応する諏訪共立診療所は脅威で、「スーパーマーケットのような病院ができたら困る」と反対が起こったのです。
地元金融機関にも圧力がかかり、初代理事長の田中一美先生の名前で、伊那市の地方銀行支店からやっと借りることができたのです。
一方、地域の期待は、職員みんなが感じました。債券を集めに地域を歩くと反応は温く、畑を売って出資してくれる人や10万円の高額出資もありました。医師の日替わりを心配する声もありましたが、医師との連携を密にして患者さんに対応しました。常勤でなくとも、医師は「山梨で得た先端の医療を諏訪でも」と情熱を持って診療にあたりました。


町長と懇談した「町の医療を語る会」

私たちへのメッセージ

「民医連は困っている人たちの"最後のよりどころ"である事を、自分たちで振り返っていかなければ」「民医連は何をするべきか、患者さんや地域住民に必要とされているのか、折に触れて考える機会を持って自身を見直していく必要がある」―創設に関わった先輩たちは口をそろえます。諏訪の地から長野県民医連を創ってきた人たちからの、いまを繋ぐ私達への叱咤激励が聞こえます。

(諏訪共立病院 聞き手:酒井暁史・片野恵太 構成:古池 智)

2014笑顔で駆けよう

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